|
映画「白痴」にひそむもの 漫画家:岡野玲子
何とも, 慣れぬ映画である。 救いがたくくだらないお笑い映画以外で涙を流したことのない私であるが,
まったく悔しいことにこの映画は, 何度見ても慣れずに落涙してしまう。しかし, 恒松正敏さんの描く自らの中を見つめる美しい女の顔と, 魂の奥底を揺さぶるような,
橋本一子さんの音楽が流れるタイトルロールが始まった途端, 内容も見ぬうちにじいんと来てしまうのだ。
そんなことにはお構いなしに, 画面は常に冷静である。冷静でありながら, そうして, 恐らく, ほとんどの観客が, この映画の一つ一つの画面の持つ力強さに圧倒されるという,
思いがけない体験をするに違いない。
それらは, 忘れてしまっていたただならぬ胸騒ぎを喚起させ, 新しい表現に, 世界に, 挑む力を芽生えさせる。
「芽生え」, なぜ芽生えるのか。
それは, 映像の持つ力もさながら, 映画の根底にあるテーマが, 驚いたことに, 実は「母性」だからであろう。安吾の原作に「母性」は姿を見せない。それは原作者自身のトラウマか,
原作の書かれた時代背景があるのかもしれない。そして, 主役伊沢自身, 最後まで戦争の産み出す妄昧から抜け出すことができない。
しかし, そこにいきなり, 原作に登場しないアイドル, ギャラクシィを意味する名の少女, 銀河が, 革命の象徴たる赤と黄の衣装をまとい, 戦いの女神を演じて登場する。この登場によって無灯の世界のように見えた原作に,
再生の兆しが出現する。革命も「母性」の姿の一つだからだ。 映画の最初の映像から最後の映像に至るまで, 「母性」を象徴するシーンが何度も繰り返される。母を失った子供の泣き声から始まり,
伊沢は潜在的に母を求めている。国民を増やすためのCFの中では, 革命と戦いの象徴であった銀河が, 今度は聖母の象徴であるセルリアンブルーにかこまれ,
魂の象徴である蝶を幾つも頭にまとい, 魂と肉体を結びつける女神の象徴である花であり, またギャラクシィの象徴である菊の花柄のドレスを着ている。そこに原初の水の波紋が広がり産み出すものへと変化(へんげ)している。
産みながら破壊してゆく巨大な母性。
空襲の中, 地球は巨大な卵子と化す。降り注ぐ焼夷弾は精子, だからこそその中で赤ん坊を抱いたアキが美しく光りながら落ちてくる, 攻撃でありながら再生を意味する焼夷弾を見て「美しい」と感嘆するのだ。
極めつけに伊沢の心の幻想の中では, 火山の中から女神が出現する。それはあたかも神話の中で, 火傷によって死に至り, 黄泉国の女神, 黒髪大神(くろかみおおかみ)となっていた大地母神伊弉冉(いざなみ)が本来の姿を取り戻し,
復活したかのようである。
白い短髪の何と対照的なこと。では, 母を求めて泣く伊沢, お前はスサノオか。小さなスサノオの声はでっかい母神にとどくのだ。その顔は, 大きな自分(セルフ)と対面したかのように,
無垢な魂を持った白痴の女サヨに瓜二つ。
そして, 生命の泉である女神は決して人間を甘やかさない。空襲の紅蓮の炎の中で観客までもが, 実に厳しい選択を迫られる。盲目的動きに流されてゆく群衆を選ぶのか,
魂の故郷に戻るため, 歩むべき道を見つけて目覚め, 勇気をもって再生へと一歩を踏み込んでゆくのか。
初めて試写を見た時, 私は驚愕とともに涙を流しながら呆れていた。
大いなる愛が背後にあるがゆえに, これは, とても, 厳しい映画である。 そしてそれは, 現代であるからこそ一人一人の中に選ぶべきものが見えてくるのだろう。新しい世代につなぐために。
1999年公開の劇場映画『白痴』(監督:手塚眞)劇場用パンフレットに掲載
(c)手塚プロダクション
|
|